概要

[平成24年度(一財)新技術振興渡辺記念会助成事業]

標記調査の結果は単行本としてまとめて刊行いたしました。ぜひご購入のうえご覧ください。(発行:科学技術国際交流センター、販売:実業広報社、定価1,000円+消費税)


「日米科学技術摩擦をめぐって」
――ジャパン・アズ・ナンバーワンだった頃――

要旨
本書は前著『日米科学技術摩擦をめぐって』の続編にあたる。日米科学技術摩擦(1982~3年)に先立つ1980年前後において、日本の科学技術政策に基礎研究シフトが行われており、それが日米科学技術摩擦にも大きな影響を与えることとなった。基礎研究のもたらす成果が、それぞれの科学技術力、経済力に反映され、世界のバランスをゆがめるであろうことが米国からは危惧されたのであった。

戦後の日本の科学技術行政は、科学行政体制の構築から始まり、科学技術行政協議会(STAC)や科学技術庁などの行政機関の設置、日本原子力研究所や理化学研究所など主要な研究機関の発足や再編により科学技術行政推進のめどがついたと言える。従って初期はこれら体制整備とあわせて、科学技術関係予算の拡大が大きな課題であった。その後、経済復興に伴い、いくつかのナショナルプロジェクトも開始され、巨大科学技術も緒に就くこととなった。しかしながらこの間の科学技術行政には国際協力で言えば「政策協調」に当たる政策はまだ発生していなかった。

一方国際協力についても、昭和二六年(一九五一年)九月八日サンフランシスコ条約の調印、同年七月二日のUNESCO参加などにより国際復帰が果たされたが、科学技術の協力協定締結は決して古いことではない。「科学技術」の名称の付された協定は、やっと一九七〇年代から締結され始めた。特に日米に関しては、カーター大統領と大平総理の合意に基づき、昭和五五年(一九八〇年)五月に日米科学技術協力協定(正式には「科学技術における研究開発のための協力に関する日本国政府とアメリカ合衆国政府との間の協定」)として初めて締結されたものである。

(参考)初期に締結された科学技術協力協定(発効日)
日ソ科学技術協力協定(昭和四八年(一九七三年)一〇月)
日仏科学技術協力協定(昭和四九年(一九七四年)七月))
日独科学技術協力協定(昭和四九年(一九七四年)一〇月)
日・ポーランド科学技術協力協定(昭和五三年(一九七八年)一一月)
日米科学技術協力協定[日米非エネルギー協定](昭和五五年(一九八〇年)五月)

もちろん、これらに先立って、例えば日米間においては個別分野(原子力、宇宙、エネルギー等)の協力協定や交換公文は存在したし、昭和三六年(一九六一年)六月の池田-ケネディ会談の合意に基づき日米科学協力委員会が設置されており、科学技術に関する協力や交流の一部は行われていた。科学技術の二国間交流に関する行政の実態は部分的に存在したのであるが、「科学技術」の名の下に全般的に取りまとめられた国際協力協定は戦後しばらく時間を必要としたのである。

このような中で、昭和五五年(一九八〇年)に締結された日米科学技術協力協定が、一回の延長の後、二回目の延長を控えて、大きな改定問題に突入した。これは当時日米・欧間で発生していた貿易摩擦問題が、農産物や建設、流通などから始まり先端技術に波及して行く過程で生じたものである。特に、戦後の経済は科学技術を牽引力として飛躍的に拡大してきたが、欧米と日本の間で「基礎研究ただ乗り」といわれる問題が提起されるようになった。

日米新協定締約直後の担当者の発言には、「科学技術分野における日米関係は大きな変化の時期にさしかかっている。わが国の経済力あるいは科学技術力の伸長の結果、米国では、科学技術分野において今や日本は対等の競争相手とみなされるに至った。日米間には、これまでの経済的あるいはハイテク貿易等における摩擦に加え、広く科学技術全体のバランスを問題とする総合科学技術摩擦ともいうべき現象が生じている。・・・このような傾向は、日米間の科学技術摩擦の問題とあいまって、一部にいわゆるテクノ・ナショナリズムとも言われる風潮を生じさせている」(「日米科学技術協力協定について」科学技術振興局長緒方謙二郎「経団連月報」昭和六三年九月)とか、「今回の交渉は、このような新しい状況変化を反映し、米国が極めて強い問題意識をもって臨んできたため、極めて厳しい交渉となり、数次の協議を経て本年三月大筋合意に至り、先般のトロント・サミットの機会をとらえてようやく署名に至ったものである。」(「日米科学技術協力協定について」科学技術振興局国際課「プロメテウス」昭和六三年九・一〇月)などのように、通常の行政文書に見られない緊迫した状況を伝えるものとなっている。

筆者の個人的な感想であるが、科学技術摩擦は単なる貿易摩擦と違い文化摩擦の一面もあったと思う。当時の日本の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(エズラ・ヴォーゲルの著書名)といわれるような過大視が行われたとき生じた文化的な摩擦であったのではないかと考える。その意味で、貿易摩擦と異なり一筋縄での解決は難しかったのである。

以下では、こうした中で生じた日米科学技術協力協定の改定がどのような経過で行われどのような議論がなされ、解決に至ったのかについて考察することとした。しかしながら、協定交渉に関しては、その経緯を読みやすく取りまとめた資料が見受けられず、またわずか二〇年余の経過にもかかわらず、省庁再編などにより資料等の散逸の恐れもあることや関係者が亡くなったり、職務から退いたために、日米科学技術協力協定の改定が行われるまでの経緯が必ずしも明確にされない状態になっている。本調査研究では、それらの具体的な事実関係を収集するとともに、関係者へのインタビューや資料の提供を受けることによりそれらの道筋を明らかにすることとした。

日米科学技術摩擦と、それに引き続く日米科学技術協力協定交渉とその実施は、日本の科学技術政策史上でも特記に値する事件であったと考えている。このような考えから、新技術振興渡辺記念会の平成二四年度助成を申請させていただき、研究を行い、今般その成果を取りまとめたものである。

本書では、まず、どのようにしてこうした摩擦が生じたか、またその際、アメリカがどのような戦略を講じたか(第一章)、そして協定交渉の劇的な開始からアメリカ国内の動向、そして交渉を経て政治的妥結に至るまでのプロセスと内容(第二章)を明らかにするとともに、日米の交渉にとどまらず、シンメトリカルアクセスや知財保護、安全保障に向けた日本国内のコンセンサス作りが科学技術会議を中心に行われた経過(第三章)を明らかにし、その後の協定への対応及び日本の国際研究交流の状況(第四・五章)などの事実関係を当時の各種の資料やインタビューによって明らかにすることとした。従来あまり明らかにされていなかったディテールにわたる資料や証言が得られているはずである。次に、当時の交渉の関係者の証言や当時の発言を発掘し新日米科学技術協力協定とその交渉経過に関する評価を明らかにし(第六章)、日米科学技術摩擦とそれに対する日米の戦略の歴史的な意味を考察することとした(第七章)。

結果的に、日米科学技術協力協定については、①旧協定が、「非エネルギー協定」と略称されていたように、原子力、エネルギー等の各分野の残余の分野の協定としてかつプログラム規定にとどまっていたのに対して、新協定は、すべての協定の研究・情報・政策等のアクセス、知的所有権、安全保障等具体的な権利義務関係を規定する全く新しい枠組みを決めた包括的な協定となっていること、②協定の交渉過程で、特に科学技術会議が国内でも重要な役割を果たし、また協定締結後は協定上の重要機関としての日米高級合同諮問会議のメンバーとして組み込まれたこと、また、貿易摩擦と深い関係を持ったために、内閣レベルとの緊密な連携が行われたことも大きな特徴である。これらは科学技術行政の在り方を検討するための参考にもなるものと考える。

【目 次】
はじめに
第一章 協定交渉前夜
第一節 協定交渉以前の経済摩擦と科学技術摩擦
第二節 先端技術と国際環境日米会議
第二章 日米科学技術協力協定交渉
第一節 交渉開始
第二節 交渉内容
第三節 協定締結
第三章 国際問題懇談会
第一節 国際懇が動き出すまで
第二節 国際問題懇談会における検討の材料
第三節 国際墾報告書とそのポイント
第四章 協定への対応
第一節 緊急的予算措置
第二節 外国人研究者受け入れの実施体制
第五章 その後の国際研究交流の状況
第一節 国際研究交流における受入/派遣
第二節 外国人研究者受入のための科学技術政策
第三節 外国人研究者をめぐる環境の改善
第六章 協定交渉をめぐる評価
第七章 日米科学技術協力協定交渉に現れた戦略